『古事記』に興味をもったら読むブログ

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にほんの神さまって?難しそうをわかりやすく!

魏志倭人伝

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『魏志倭人伝』に描かれている日本人の生活の記録、つづきです。

<兵器>
≫・矛・楯・木弓をもちい、木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃や骨鏃を用いる≪

<生活>
≫気候は温暖で、倭人は冬も夏も生野菜を食べる。≪

本当にこう書かれているのです。これは、日本人って、まさかの昔からサラダ生活?
たしか昔読んだ料理漫画で、

「中国料理は水が貴重なため油文化、日本料理は水が豊富なため水文化」

なのだと読みました。(ワタシの知識は漫画なのね^^;)
たしかに豊富な水がなければ野菜を洗えないわけですし、生の野菜を食べるなどできませんから、古代から川の水が豊富で恵まれていた証拠かもしれません。中国の人が書き記すことなのですから、よほど驚いたんでしょうね。


≫みなが裸足で生活している。家屋はあるが、父母兄弟はそれぞれに居所を別にしている。朱丹(赤い顔料)を身体に塗るのは、中国でおしろいを塗るようなものだ。飲食には高杯を用い、手づかみで食べる。
死ぬと棺に納めるが、槨(かく。墓室)はつくらず、土で密封して塚をつくる。死去から十日余で喪は終わるが、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて哭き、他人はその周りで歌舞・飲酒する。埋葬すると、一家をあげて、水中で禊をし、中国で一周忌に練り絹を着て沐浴するのと同じようにする。≪

いろいろつっこみどころがありますが、父母兄弟がみんなそれぞれ居所を別にしているとは、どのような状態なのでしょうね。それぞれ個室だったのでしょうか?それともぜんぜん別棟を立てて生活してたのでしょうか?
『源氏物語』などを読むと当時は通い婚だったらしく、男の人が女性のところへ夜這いにいくのが習慣だったようですが、こんな昔からそうだったのでしょうか?しかもこの書き方だと子どもたちも別部屋のようですが……。今より殺伐とした家族関係!?(笑)
顔にも赤い顔料を塗ったり、黒ずんだ入れ墨をしたり、当時の日本人(おそらく海の民族の風習と思われる)は、かなりカラフルな容貌。
そして食事のときの手づかみですが、箸は使わなかったのでしょうか?
卑弥呼より昔に生きていたと思われるスサノオの話しで、たしか箸が出てきたのです。
有名なヤマタノオロチの話しで、スサノオが川上から箸が流れてきたのを見て、上流に人が住んでいると判断してそちらへと向かったという一節がありましたよね?

てことは、当時の人、箸使ってるでしょう!
そう思ったら分かりました。実は当時の箸は、特別なものだったようです↓↓↓

箸の歴史

≫日本に箸が入ってきたのは、弥生時代の末期であると言われています。その当時の箸は現在のように二本一組の箸ではなく、「折箸」という、細く削った一本の竹をピンセットのように折り曲げた形でした。当時の箸は一般の人が使うものではなく、神様が使う神器であり、または天皇だけが使うことを許されたものでした。

なるほど、ということは一般の人はやはり手づかみだったのですね。

ところでスサノオの段の"箸"の話しで、もうひとつずっと不思議に思っていたことがあるのですが…。
ヤマタノオロチ退治の話しで、スサノオは

≫川上から箸が流れてきたのを見て人が住んでいると判断した

わけですが、実際にお箸が流れて来たって、木の枝と区別がつくわけがない、本当にそれが箸で、人が使っているものだとわかるのだろうか?、とずっと疑問だったのです。しかし、このピンセット状の箸なら、一目で人工のものだとわかるし、川上に人がいるという証拠にもなりえたわけです。
幼い頃、ドラえもんの「ヤマタノオロチ」の話しをみてからの長い間の疑問が今解けました(笑)
やっぱり知識のもとが漫画ですわ、わたし。


<渡航するときの風習>
≫つねに一人は頭をとかさず、しらみもとらせず、衣服も汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせる。これを持衰(じさい)という。航海が無事にゆけば、かれに生口(奴隷)・財を与え、もし舟に病人が出たり暴風雨に合えば、これを殺す。持衰が禁忌を怠ったからだという。≪

持衰(じさい)に選ばれたら航海中生きた心地がしませんね。この一人を犠牲にした願掛けは、それだけ航海が困難な時代だったということでしょう。
そしてちょいちょい話しにでてくるのがこの"生口(せいこう)"という奴隷。


≫106年、倭国王が後漢の皇帝へ生口160人を献じる(『後漢書』)。

239年に卑弥呼が魏明帝へ男生口4人、女生口6人を献じる。

243年に同じく卑弥呼が魏少帝へ生口を献じる。

248年に後継者台与(とよ)が生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)≪


かなり、生口の献上が行われているのがわかります。
一方、卑弥呼の墓にも奴隷100余人が殉葬されています。しかし『魏志倭人伝』は 皇帝へ献上するのは、"生口"と書いていますが、卑弥呼の 墓の記述の殉葬された人々は、"生口"ではなく、"奴婢"と書いています。。"生口"がもともとは捕虜の意味ということから、奴隷的身分だと推測されていますが、皇帝に献上されるような人々ならば、単なる奴隷ではなく、なんらかの技術を持っていたのでは?という見方もあるようです。

"
持衰(じさい)"
"生口"
"奴婢"。

どちらにしても、なりたくありませんな。

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前回のつづきです。


< 衣服 >

古代の服装は、身分の上下でももちろん違いますが、日常着としてのケの日と結婚式に着る、ハレの日の正装と異なっていたようです。
吉野ヶ里遺跡において、裕福な人物の甕棺墓(かめかんぼ。かめを棺とした墓。ひざを抱えた形で埋葬されている)から絹織物が出土したそうです。この布は、袖を縫い合わせたと考えられる部分が残っていたとか。富裕層においては、貫頭衣とはことなり、袖つきの衣服を着用していたようです。
また、吉野ヶ里遺跡から透目絹という華中方面の古代絹と同じ優美で繊細な絹が出土しており、高度な織機技術があったことがわかりました。
また、絹布の中には、貝紫や、日本茜で染色されたものがある事も確認されました。吉野ヶ里遺跡の発見により、富裕層においては、それまで「魏志倭人伝」で記録されたものよりも高度で、赤や紫など美しい彩色の服を着ていたことがわかります。


<動物>

≫牛・馬・トラ・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。≪


他の動物はともかく、牛や馬もまだいないようです。
その後、日本に牛も馬も現れるわけですが、いったいどのようにして来たのかが不思議でなりません。

馬がいつ渡来したのか調べてみました。以下wikipediaより

≫4世紀末から馬骨・馬具の出土は古墳の築造と連動して東国など広範囲で確認されており、この頃に馬事文化が大陸から日本へと運ばれたのではないかとされている。
5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡、鐙などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。≪

と、4世紀ごろから馬が存在したことはわかりましたが、どのようにやってきたのかは調べることができませんでした。

考えられるのは、大規模な寒冷期の訪れにより海水面がさがり、馬も日本に渡ってこられたのではないか?という考えです。

紀元前に大規模な氷河期はありましたが、それも紀元前2000年-紀元前200年。その後は一度温暖期にはいり、紀元200年から700年ごろ寒冷期になりましたが、その時期の海面というのは、逆に今よりも上昇していたので、馬が渡ってこられるような地形ではありませんでした。仮説として、氷河期に北方から人間と一緒に渡ってきた馬が実は存在していたのだが、西日本にはいなかったのではないか?というのを立てて見ましたがどうでしょう。また調べてみたいと思います。

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とにかく「魏志倭人伝」には、その当時の日本の様子が描かれていて、これがとてもおもしろい!のです。

どちらかというと、「魏志倭人伝」の記録と言えば、『卑弥呼』や『邪馬台国はどこにある?』といった部分に視点が集まりがちですが、日本人がその当時の中国人からみて、客観的にどんな風俗だったのか、どんな生活を送っていたのかが描かれていることは、一般の人にはあまりしられていません。
その当時の日本人を第三者からみたデータというのは、このような中国の史書しかないわけですから、これはもう読むしかない!ってわけです。

さあ、「魏志倭人伝」に描かれたその当時の日本人の姿とは!
「魏志倭人伝」の記録をみていきたいと思います。

<身なり 「黥面文身(げいめんぶんしん)」
≫男子はおとな子どももなく、みな身体に入れ墨をしている。
夏后の少康(夏王朝第六代皇帝)の子が会稽に封じられたとき、蛟龍(みずち。伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をしたことがある。
倭の漁師も好んで水にもぐり、魚やハマグリを捕るので、身体に入れ墨をして大魚や水鳥を避けていたが、のちに飾りになったという。入れ墨は国ごとに異なり、左右、大小違いがあり、尊卑によっても違った。
その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。≪

 全身に入れ墨をしているということを原文では「黥面文身(げいめんぶんしん)」と書いています。

「黥」というのは古代中国において罪人としての目印として顔に入れ墨をする刑罰のこと。「文身」の「文」は文様の意味ですから、「文身」とは「文」様のついた「身」体、つまり身体への入れ墨のこととされています。


『古事記』でも『日本書紀』でも入れ墨の記述など見たことがありませんので、おそらく当時の日本人全体の風俗というよりは、一部の海人(あま)族の風俗を描いていると思うのですが、中国の会稽という地域と同じようなものではないか、という指摘をしています。

この中国南部の民族と当時の日本の生活が似ている、という指摘はさまざまな研究においてもされており、日本の稲作もイネのDNAを分析した結果、中国南部のものと同じとのこと。呉の民が日本に流れてきたという説もあります。日本人自体いくつもの民族の集合体ですが、その一つ、稲作を伝えた民族が、この周辺に由来するようです。

≫倭の風俗は折り目正しくきちんとしており、男子は皆冠をかぶらず木綿の布を頭に捲いている。その衣服は幅の広い布を紐でゆわえているだけで、ほとんど縫っていない。夫人はおさげや髷を結ったりし、衣服は単衣、中央に穴をあけて頭を通して着ていた。≪

実際には各地の遺跡から出土している織機からすると、弥生時代の布の幅はほぼ30センチです。30センチでは布一枚で真ん中に穴をあけて顔を出す服というのは、少し厳しいかもしれません。ですから一般には、布二枚を合わせて、頭と腕の出る部分を残して、脇で綴りあわせた形ではないか、または斜めにたすきがけしていたのではないか、とされています。

<農作物>
≫稲、紵麻(からむし)※をうえ、桑、蚕を育て紡績し、細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。≪
※紵麻(からむし)…茎の皮からは衣類、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れる。古代では重宝していた

桑、蚕をそだてて絹織物を作っていたとは!
イネと同じくDNA解析の結果、栗も栽培していたという佐藤洋一郎氏の話しも。野生種ではDNAの並びというのはバラバラなのに対し、青森の三内丸山遺跡から出土した栗を解析した結果、DNAが見事にそろっており、縄文時代にすでに栽培がおこなわれていた可能性があるそうです。
上質の布、絹、真綿……現在に劣らぬいい生地を生産できる、その技術があるのなら、上記の中央に「穴を空けただけの服」の記載よりも、もう少しましな服を着ていたのではないかと予想できますね。

つづく。

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『卑弥呼』 って誰だろう? のpart2です。

『魏志倭人伝』では、『卑弥呼』について以下のように書いています。

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫はなく、弟が国の政治の補佐をしていた。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。≪

この共立、
ポイントです。
一国が力づくで支配したのではなく、話し合いにより女王をたてたと読めます。
日本が倭つまり”和”の国であり、大乱があったとはいえ、話し合いで混乱を鎮めたということでしょうか?

また、この卑弥呼が行っていたといわれる「鬼道」とは一体どういうものなのでしょうか?実際にはっきりとした情報はなく、よく言われるシャーマン(霊媒師)説、鬼道が道教と関係があるという説、日本神道をあらわしているという説、または当時の儒教にそぐわない宗教全般を表しているという説と諸説あるようです。

卑弥呼とは、手塚治虫が「火の鳥」で描いたような、ヒステリックでひとり小屋にこもって外に出ず、ひたすら占いをしているイメージがありますが、この『魏志倭人伝』を読むとここからそのイメージがつけられたことがわかります。

その後、卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じました。それを喜んだ皇帝から「親魏倭王」に任じられ多くの品を下賜されました。
その品々が尋常ではなくかなり多いのです。

金印紫綬ばかりでなく絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹と想像しただけでも絢爛豪華な反物がたくさん。


≫また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。≪


と、たくさんの下賜品のなかに、有名な銅鏡100枚の記述も見られます。
京都府の椿井大塚山古墳や奈良県の黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡のいずれかがこれに当たるのではないかと言われていますが、決着はついていません。

魏の皇帝にこれだけ喜ばれて多大な品々を贈られるとは、魏にとっても利益がある取引だったのでしょう。当時はまさに生き馬の目を抜く戦国時代。魏にしてみても、中国内だけではなく、朝鮮半島まで戦略的に視点を広げた時、東から援護ができる日本という立地はかなり好条件だったとおもわれます。

さて、その卑弥呼の邪馬台国ははたして本当に日本を総括して支配していた国だったのでしょうか?
いいえ。
おそらく抜け駆けです。
諸国に先んじて魏に使者を送り、まだ日本の状況をつかめていない中国に自分が女王だと宣言してしまうことによって、世界に公式に邪馬台国を認めさせてしまったのです。他の諸国が焦ってももう遅い、魏が卑弥呼の邪馬台国を倭をおさめる国として認めてしまったのですから、かなり悔しい思いをした国もあったのではないでしょうか。

人生けっこうその心は大事ですよ。ずうずうしい人の方がうまくやっていくものです。
けっこう、やったもん勝ちです(笑)

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(いよ、または、とよ)が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。≪


卑弥呼が死んだあとのこの”大きな墳墓”がどこにあるのか、それはまだはっきりとはわかっていません。
前回も書きましたが、「卑弥呼」とは中国側の理解で書かれた名前であり、女王の本名ではありません。
http://yamato-history.blog.jp/archives/1007848179.html
日本の『古事記』『日本書紀』で誰にあたるのか、実はまだわかっていないのです。
そしてその墳墓には奴隷100余人が殉葬されました。

卑弥呼亡き後、男の王をたてましたが、国が服さず、互いが殺しあうひどい状況になってしまいます。
そこで立てたのが13歳の宗女、トヨでした。宗女の意味もよくわかりません。娘であるといったり、卑弥呼の家系の子であるといったり、弟子であると言ったり。
そしてトヨが王の座につくと、不思議なことに国中が服したというのです。
女王となったトヨは、後年、卑弥呼とおなじように中国の皇帝にさまざまな品を献上しました。

13歳の女王!

このトヨについては書きたいことがたくさんありますのでまた別の章で。
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