古事記
卑弥呼の時代の日本人~その3。古代の日本人はサラダ好き!?
<兵器>
≫・矛・楯・木弓をもちい、木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢には、鉄鏃や骨鏃を用いる≪
<生活>
≫気候は温暖で、倭人は冬も夏も生野菜を食べる。≪
本当にこう書かれているのです。これは、日本人って、まさかの昔からサラダ生活?
たしか昔読んだ料理漫画で、
「中国料理は水が貴重なため油文化、日本料理は水が豊富なため水文化」
なのだと読みました。(ワタシの知識は漫画なのね^^;)
たしかに豊富な水がなければ野菜を洗えないわけですし、生の野菜を食べるなどできませんから、古代から川の水が豊富で恵まれていた証拠かもしれません。中国の人が書き記すことなのですから、よほど驚いたんでしょうね。
死ぬと棺に納めるが、槨(かく。墓室)はつくらず、土で密封して塚をつくる。死去から十日余で喪は終わるが、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて哭き、他人はその周りで歌舞・飲酒する。埋葬すると、一家をあげて、水中で禊をし、中国で一周忌に練り絹を着て沐浴するのと同じようにする。≪
いろいろつっこみどころがありますが、父母兄弟がみんなそれぞれ居所を別にしているとは、どのような状態なのでしょうね。それぞれ個室だったのでしょうか?それともぜんぜん別棟を立てて生活してたのでしょうか?
そして食事のときの手づかみですが、箸は使わなかったのでしょうか?
なるほど、ということは一般の人はやはり手づかみだったのですね。
<渡航するときの風習>
≫つねに一人は頭をとかさず、しらみもとらせず、衣服も汚れたままとし、肉を食べず、婦人を近づけず、あたかも喪に服している人のようにさせる。これを持衰(じさい)という。航海が無事にゆけば、かれに生口(奴隷)・財を与え、もし舟に病人が出たり暴風雨に合えば、これを殺す。持衰が禁忌を怠ったからだという。≪
持衰(じさい)に選ばれたら航海中生きた心地がしませんね。この一人を犠牲にした願掛けは、それだけ航海が困難な時代だったということでしょう。
そしてちょいちょい話しにでてくるのがこの"生口(せいこう)"という奴隷。
≫106年、倭国王が後漢の皇帝へ生口160人を献じる(『後漢書』)。
239年に卑弥呼が魏明帝へ男生口4人、女生口6人を献じる。
243年に同じく卑弥呼が魏少帝へ生口を献じる。
248年に後継者台与(とよ)が生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)≪
" 持衰(じさい)"
"生口"
"奴婢"。
どちらにしても、なりたくありませんな。
『卑弥呼』ってだれだろう?~part2 戦略家だった卑弥呼!?
この共立、ポイントです。
一国が力づくで支配したのではなく、話し合いにより女王をたてたと読めます。
日本が倭つまり”和”の国であり、大乱があったとはいえ、話し合いで混乱を鎮めたということでしょうか?
金印紫綬ばかりでなく、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹と想像しただけでも絢爛豪華な反物がたくさん。
≫また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。≪
さて、その卑弥呼の邪馬台国ははたして本当に日本を総括して支配していた国だったのでしょうか?
いいえ。
おそらく抜け駆けです。
諸国に先んじて魏に使者を送り、まだ日本の状況をつかめていない中国に自分が女王だと宣言してしまうことによって、世界に公式に邪馬台国を認めさせてしまったのです。他の諸国が焦ってももう遅い、魏が卑弥呼の邪馬台国を倭をおさめる国として認めてしまったのですから、かなり悔しい思いをした国もあったのではないでしょうか。
人生けっこうその心は大事ですよ。ずうずうしい人の方がうまくやっていくものです。
けっこう、やったもん勝ちです(笑)
オオクニヌシの『小國神社』へ行ってきました!
いちごは地元の「べにほっぺ」をつかったいちごがごろっと入ったいちごジャムがかかっており、こりゃおいしい!
当然、ふわっとやわらかい氷で、いちごとみるくとまざりあうと、最高♪
さきほどの「なにかがいる」と言っていた子供も、「おいしいねー」と言ってよろこんで食べていました(笑)
『国譲り』
しかしそのアメノホヒ、オオクニヌシに媚びていったきり3年も帰らなくなってしまいました。
仕方がないのでアマテラス会議は次にアメノワカヒコを遣わしました。
アメノワカヒコはあろうことかオオクニヌシの娘、下照姫とできてしまい、さらに長い8年も帰らずにいました。
アマテラス一族、それまで12年。たいして対応をしなかったあたり、けっこう、気が長い人たちです。
しかしさすがにその後、裏切ったとばれたアメノワカヒコは殺されてしまい、今度はタケミカヅチとアメノトリフネ(飛ぶ船の神)が遣わされました。
今度遣わされた特使により、やっと話し合いが行われます。
ここまですでに12年。
オオクニヌシは「息子はなんていうかな?」と、まず事代主(コトシロヌシ)に聞いてくれるよう言います。
コトシロヌシは、すぐにアマテラスに従うと言い、そして海に隠れてしまわれました。
オオクニヌシは次に、タケミナカタに聞いてくれといいます。
タケミナカタはタケミカヅチに「力くらべをしよう」と勝負を挑み、あっさり負け、諏訪に逃げてもうここから出ないと誓いました。
子ども二人の承認を得て、オオクニヌシはアマテラスに国を譲ります。
ただ、「天の御舎(みあらか)」、宮殿を造ってくれることを条件に。
これが、のちの『出雲大社』になりましたとさ。
このようにして、『国譲り』は話し合いによって成立したというのです。
晴れて「葦原の中つ国」はアマテラスの国として支配下に置かれることになったのです。
というのが『国譲り』のあらましで、オオクニヌシの息子たちが、あっさりアマテラスを認めたと言ったということですが…。
コトシロヌシは、認めながらも「海にお隠れになった」つまり死んだというのは、どう考えても不自然。
タケミナカタも少し力比べをしてあっさり負け、素直に「天つ神のおっしゃるとおりに」と認めましたが、こちらも不自然。
やはりこのタケミナカタの「力比べ」はかなりの争いがあったのをやんわりと表現していると考えられます。
うーむ。それにしても、何度も敵国の遣いを自分の仲間に取り込んでしまったなど、『大国主』という賛辞のとおり、オオクニヌシはよほどの人望があったということでしょうか。
もし、そんな戦乱の時代であったのなら、アマテラスのおぼっちゃんでなくとも、ちょっと親に「国を治めに行って来い」と言われて行ける状況でもなかったようですね^^;
てなところで、本日はこれまで。
はしあきでした♪