『古事記』に興味をもったら読むブログ

あなたは日本の神さまってどれくらい知ってますか? 『古事記』『日本書紀』をはじめ、八百万の神さまや、日本人って一体どこから来たのか、などなど、なるべくわかりやすくお伝えしていきます♪

にほんの神さまって?難しそうをわかりやすく!

古代史

『卑弥呼』 って誰だろう? のpart2です。

『魏志倭人伝』では、『卑弥呼』について以下のように書いています。

元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の少女を女王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。

卑弥呼は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫はなく、弟が国の政治の補佐をしていた。卑弥呼は1000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、めぐらされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来人と会うことはなく、一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。≪

この共立、
ポイントです。
一国が力づくで支配したのではなく、話し合いにより女王をたてたと読めます。
日本が倭つまり”和”の国であり、大乱があったとはいえ、話し合いで混乱を鎮めたということでしょうか?

また、この卑弥呼が行っていたといわれる「鬼道」とは一体どういうものなのでしょうか?実際にはっきりとした情報はなく、よく言われるシャーマン(霊媒師)説、鬼道が道教と関係があるという説、日本神道をあらわしているという説、または当時の儒教にそぐわない宗教全般を表しているという説と諸説あるようです。

卑弥呼とは、手塚治虫が「火の鳥」で描いたような、ヒステリックでひとり小屋にこもって外に出ず、ひたすら占いをしているイメージがありますが、この『魏志倭人伝』を読むとここからそのイメージがつけられたことがわかります。

その後、卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じました。それを喜んだ皇帝から「親魏倭王」に任じられ多くの品を下賜されました。
その品々が尋常ではなくかなり多いのです。

金印紫綬ばかりでなく絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹と想像しただけでも絢爛豪華な反物がたくさん。


≫また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。≪


と、たくさんの下賜品のなかに、有名な銅鏡100枚の記述も見られます。
京都府の椿井大塚山古墳や奈良県の黒塚古墳から大量に出土した三角縁神獣鏡のいずれかがこれに当たるのではないかと言われていますが、決着はついていません。

魏の皇帝にこれだけ喜ばれて多大な品々を贈られるとは、魏にとっても利益がある取引だったのでしょう。当時はまさに生き馬の目を抜く戦国時代。魏にしてみても、中国内だけではなく、朝鮮半島まで戦略的に視点を広げた時、東から援護ができる日本という立地はかなり好条件だったとおもわれます。

さて、その卑弥呼の邪馬台国ははたして本当に日本を総括して支配していた国だったのでしょうか?
いいえ。
おそらく抜け駆けです。
諸国に先んじて魏に使者を送り、まだ日本の状況をつかめていない中国に自分が女王だと宣言してしまうことによって、世界に公式に邪馬台国を認めさせてしまったのです。他の諸国が焦ってももう遅い、魏が卑弥呼の邪馬台国を倭をおさめる国として認めてしまったのですから、かなり悔しい思いをした国もあったのではないでしょうか。

人生けっこうその心は大事ですよ。ずうずうしい人の方がうまくやっていくものです。
けっこう、やったもん勝ちです(笑)

正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後男王が立てられるが人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(いよ、または、とよ)が王に立てられ国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。≪


卑弥呼が死んだあとのこの”大きな墳墓”がどこにあるのか、それはまだはっきりとはわかっていません。
前回も書きましたが、「卑弥呼」とは中国側の理解で書かれた名前であり、女王の本名ではありません。
http://yamato-history.blog.jp/archives/1007848179.html
日本の『古事記』『日本書紀』で誰にあたるのか、実はまだわかっていないのです。
そしてその墳墓には奴隷100余人が殉葬されました。

卑弥呼亡き後、男の王をたてましたが、国が服さず、互いが殺しあうひどい状況になってしまいます。
そこで立てたのが13歳の宗女、トヨでした。宗女の意味もよくわかりません。娘であるといったり、卑弥呼の家系の子であるといったり、弟子であると言ったり。
そしてトヨが王の座につくと、不思議なことに国中が服したというのです。
女王となったトヨは、後年、卑弥呼とおなじように中国の皇帝にさまざまな品を献上しました。

13歳の女王!

このトヨについては書きたいことがたくさんありますのでまた別の章で。
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こんにちわ。

日本古代史愛好家、はしあきです。

突然ですが、あなたは『古事記』を読んだことありますか?

ちょっと前に「古事記編纂1300年」ということで興味をもたれた方、または昨年2013年の伊勢神宮、出雲大社の同年の遷宮とあって、『古事記』を読んだ方もいらっしゃるかと思います。

読まれました?

しかし『古事記』を手に取ってただ、読んでも、実はそこまで面白くないのです。

文学として読むのはそれはそれで面白いのですが、いきなりはじまりが神話ですから、子どもに話すおとぎ噺のような話がつづいているので、ふーん、と一読して終わってしまったり、「日本最古の伝えられている書物か、なるほどね」という感想で終わってしまった、という方もいるでしょう。

もしくは、そんなの読む気にもなれない、という人が大多数でしょうか(苦笑)

それはもう、本当にもったいないこと。

『古事記』の本当の面白さは、

”謎解き”にある!

と私は思っています。

『古事記』自体を読んだだけではそれはまったくわからないし、だれもそこまで伝えてくれないですよね。

でも実際に多くの研究者が数多くの書籍を出して、あーでもないこーでもないと議論しあって…そしてハマっているのは、


『古事記』に書かれていることが”謎”だらけだから!


につきます。

『古事記』の次に編纂されたとされる『日本書紀』も、出だしは『古事記』とおなじように神話で始まりますが、まず同じ神さまでも描かれ方や漢字が違います。

スサノオノミコトで例えると、同じ神さまであっても『古事記』では須佐之男命、『日本書紀』では素戔嗚尊と漢字表記が違います。

『古事記』のほうの”須佐之男”は勇ましいイメージですが、

『日本書紀』の”素戔嗚”は卑下した意味の漢字を使っています。

この名前ひとつとっても、なぜこのような表記の差があるのか、

》編纂した人間の意図があるのでは?

》編纂した時代背景は?

と妄想がどんどんふくらんでゆくわけです。

さらに同じ出来事でも『古事記』と『日本書紀』では年代が違ったり、殺人(神?)事件でも犯人が違ったりするのです。

『古事記』とは離れますが、古代史研究家を魅了する”謎”でもっとも有名なのは、

邪馬台国は一体どこにあるのか?

でしょう。

このブログでは『古事記』ばかりではなく、『魏志倭人伝』もふくめた古代史全般を取り扱っていきますが、いろんな研究者の方の意見を読むだけでも、なかなか面白いものです。


私は一般人ですが、ひょんなことから古代史にはまり、はや十年。

この面白い日本古代史の世界と、この魅力あふれる”謎解き”をみなさんにも知ってもらうためにブログを書いていこうと思っています。

そして、


》日本人は一体何者なのか

》天皇って一体なぜ存在するのか

》自分(日本人)はなぜこんな考え方をしてしまうのか


などなど、みなさんに少しずつお伝えしながら、古代史から日本人としての長い歴史を知ることで、

日本人って、素晴らしい!

と、誇りをもってもらいたいのです。

ゆっくりではありますが、少しずつ、書き綴ってゆきたいと思います。

よろしくお願いいたします。



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