とにかく「魏志倭人伝」には、その当時の日本の様子が描かれていて、これがとてもおもしろい!のです。

どちらかというと、「魏志倭人伝」の記録と言えば、『卑弥呼』や『邪馬台国はどこにある?』といった部分に視点が集まりがちですが、日本人がその当時の中国人からみて、客観的にどんな風俗だったのか、どんな生活を送っていたのかが描かれていることは、一般の人にはあまりしられていません。
その当時の日本人を第三者からみたデータというのは、このような中国の史書しかないわけですから、これはもう読むしかない!ってわけです。

さあ、「魏志倭人伝」に描かれたその当時の日本人の姿とは!
「魏志倭人伝」の記録をみていきたいと思います。

<身なり 「黥面文身(げいめんぶんしん)」
≫男子はおとな子どももなく、みな身体に入れ墨をしている。
夏后の少康(夏王朝第六代皇帝)の子が会稽に封じられたとき、蛟龍(みずち。伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をしたことがある。
倭の漁師も好んで水にもぐり、魚やハマグリを捕るので、身体に入れ墨をして大魚や水鳥を避けていたが、のちに飾りになったという。入れ墨は国ごとに異なり、左右、大小違いがあり、尊卑によっても違った。
その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。≪

 全身に入れ墨をしているということを原文では「黥面文身(げいめんぶんしん)」と書いています。

「黥」というのは古代中国において罪人としての目印として顔に入れ墨をする刑罰のこと。「文身」の「文」は文様の意味ですから、「文身」とは「文」様のついた「身」体、つまり身体への入れ墨のこととされています。


『古事記』でも『日本書紀』でも入れ墨の記述など見たことがありませんので、おそらく当時の日本人全体の風俗というよりは、一部の海人(あま)族の風俗を描いていると思うのですが、中国の会稽という地域と同じようなものではないか、という指摘をしています。

この中国南部の民族と当時の日本の生活が似ている、という指摘はさまざまな研究においてもされており、日本の稲作もイネのDNAを分析した結果、中国南部のものと同じとのこと。呉の民が日本に流れてきたという説もあります。日本人自体いくつもの民族の集合体ですが、その一つ、稲作を伝えた民族が、この周辺に由来するようです。

≫倭の風俗は折り目正しくきちんとしており、男子は皆冠をかぶらず木綿の布を頭に捲いている。その衣服は幅の広い布を紐でゆわえているだけで、ほとんど縫っていない。夫人はおさげや髷を結ったりし、衣服は単衣、中央に穴をあけて頭を通して着ていた。≪

実際には各地の遺跡から出土している織機からすると、弥生時代の布の幅はほぼ30センチです。30センチでは布一枚で真ん中に穴をあけて顔を出す服というのは、少し厳しいかもしれません。ですから一般には、布二枚を合わせて、頭と腕の出る部分を残して、脇で綴りあわせた形ではないか、または斜めにたすきがけしていたのではないか、とされています。

<農作物>
≫稲、紵麻(からむし)※をうえ、桑、蚕を育て紡績し、細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。≪
※紵麻(からむし)…茎の皮からは衣類、さらには漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れる。古代では重宝していた

桑、蚕をそだてて絹織物を作っていたとは!
イネと同じくDNA解析の結果、栗も栽培していたという佐藤洋一郎氏の話しも。野生種ではDNAの並びというのはバラバラなのに対し、青森の三内丸山遺跡から出土した栗を解析した結果、DNAが見事にそろっており、縄文時代にすでに栽培がおこなわれていた可能性があるそうです。
上質の布、絹、真綿……現在に劣らぬいい生地を生産できる、その技術があるのなら、上記の中央に「穴を空けただけの服」の記載よりも、もう少しましな服を着ていたのではないかと予想できますね。

つづく。