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記事は引越ししました(古代の日本人の寿命は100歳だった⁈〜魏志倭人伝の中の日本)
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あなたは日本の神さまってどれくらい知ってますか? 『古事記』『日本書紀』をはじめ、八百万の神さまや、日本人って一体どこから来たのか、などなど、なるべくわかりやすくお伝えしていきます♪
≫106年、倭国王が後漢の皇帝へ生口160人を献じる(『後漢書』)。
239年に卑弥呼が魏明帝へ男生口4人、女生口6人を献じる。
243年に同じく卑弥呼が魏少帝へ生口を献じる。
248年に後継者台与(とよ)が生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)≪
前回のつづきです。
< 衣服 >
古代の服装は、身分の上下でももちろん違いますが、日常着としてのケの日と結婚式に着る、ハレの日の正装と異なっていたようです。
吉野ヶ里遺跡において、裕福な人物の甕棺墓(かめかんぼ。かめを棺とした墓。ひざを抱えた形で埋葬されている)から絹織物が出土したそうです。この布は、袖を縫い合わせたと考えられる部分が残っていたとか。富裕層においては、貫頭衣とはことなり、袖つきの衣服を着用していたようです。
また、吉野ヶ里遺跡から透目絹という華中方面の古代絹と同じ優美で繊細な絹が出土しており、高度な織機技術があったことがわかりました。
また、絹布の中には、貝紫や、日本茜で染色されたものがある事も確認されました。吉野ヶ里遺跡の発見により、富裕層においては、それまで「魏志倭人伝」で記録されたものよりも高度で、赤や紫など美しい彩色の服を着ていたことがわかります。
<動物>
≫牛・馬・トラ・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。≪
他の動物はともかく、牛や馬もまだいないようです。
その後、日本に牛も馬も現れるわけですが、いったいどのようにして来たのかが不思議でなりません。
馬がいつ渡来したのか調べてみました。以下wikipediaより
≫4世紀末から馬骨・馬具の出土は古墳の築造と連動して東国など広範囲で確認されており、この頃に馬事文化が大陸から日本へと運ばれたのではないかとされている。
5世紀初めには馬形埴輪が登場する。5世紀前半の応神天皇の陪塚や仁徳天皇の陵墓の副葬品として馬具が出土しており、5世紀中ごろになると馬の骨格の実物も出土し、古墳の副葬品も鞍、轡、鐙などの馬具や馬形埴輪の出土も増えることから、日本でこの頃には馬事文化が確実に普及したと考えられる。≪
と、4世紀ごろから馬が存在したことはわかりましたが、どのようにやってきたのかは調べることができませんでした。
考えられるのは、大規模な寒冷期の訪れにより海水面がさがり、馬も日本に渡ってこられたのではないか?という考えです。
紀元前に大規模な氷河期はありましたが、それも紀元前2000年-紀元前200年。その後は一度温暖期にはいり、紀元200年から700年ごろ寒冷期になりましたが、その時期の海面というのは、逆に今よりも上昇していたので、馬が渡ってこられるような地形ではありませんでした。仮説として、氷河期に北方から人間と一緒に渡ってきた馬が実は存在していたのだが、西日本にはいなかったのではないか?というのを立てて見ましたがどうでしょう。また調べてみたいと思います。
全身に入れ墨をしているということを原文では「黥面文身(げいめんぶんしん)」と書いています。
「黥」というのは古代中国において罪人としての目印として顔に入れ墨をする刑罰のこと。「文身」の「文」は文様の意味ですから、「文身」とは「文」様のついた「身」体、つまり身体への入れ墨のこととされています。
『古事記』でも『日本書紀』でも入れ墨の記述など見たことがありませんので、おそらく当時の日本人全体の風俗というよりは、一部の海人(あま)族の風俗を描いていると思うのですが、中国の会稽という地域と同じようなものではないか、という指摘をしています。
金印紫綬ばかりでなく、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹と想像しただけでも絢爛豪華な反物がたくさん。
≫また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。≪